2016年 6月 の投稿一覧

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■最高級の「神戸家具」を

永田良介商店は神戸で生まれた洋家具の専門店です。

木の豊かさと手作りの味わいを備えた伝統のスタイルと確かな技術を継承しつつ、新しいニーズにお答えすることで満足していただける家具をご提供させていただいております。

当店の家具は欧風でありながら日本人の生活に合うように、例えば和室にも洋室にも合うように、また靴を履かない日本人の生活・体型に合った高さに仕上がるように工夫してお作りするオリジナル家具です。 全ての家具は製図を書き・お見積をさせていただき、お客様にご納得いただいてから製造にかかる完全オーダー家具です。従って店頭の見本とは木目などが違うこともございますが、こういった木目の違いは同じデザインでも一点ずつお作り致しておりますことの証でございます。

店舗・住宅の室内装飾も致しております。室内外のドア・作り付け家具・カーペット・カーテン・照明器具等お客様のご希望をお伺いした上でご提案させ ていただき、ご納得いただけるものをトータルでコーディネートし、お作りさせていただきます。新規・リフォームどちらでもご相談にお伺いいたします。

良い家具はメンテナンスをして長く使っていただくことで環境にもやさしい製品となります。また当店の家具はほとんどWAX仕上げですので、木が呼吸 しております。その為環境によっては狂いが生じる場合もございますのでお買い上げ後のメンテナンスも致しております。生活をともにしてきた家具たちを再度 塗替たり、張替たりすることで、 年月を得てできたクラッシックな良い色となり、心地よい座り心地も戻ってまいります。 そのように使っていただければ100年以上気持ちよく使っていただくことも可能ですし、現実に当店製の100年を越えるアンテイーク家具も残っております。

 

5代目店主
永田耕一

■文明開化、その時代のうねりとともに永田良介商店は生まれました。

港町・神戸の外国人遺留置にて西欧から渡ってきた家具の修理・修正から始まり、国内に西洋文化ブームが広がると「日本人の生活に則した洋風家具」をポリシーに数々の居宅に対し家具を造り続けて参りました。

伝統を感じつつも、常にモダンな永田良介商店のオーダーメイド家具。

あなたのお部屋にいかがですか?

■神戸家具の伝統をあなたに

当店の家具は欧風でありながら日本人の生活に合うように、例えば和室にも洋室にも合うように、また靴を履かない日本人の生活・体型に合った高さに仕上がるように工夫してお作りするオリジナル家具です。 全ての家具は製図を書き・お見積をさせていただき、お客様にご納得いただいてから製造にかかる完全オーダー家具です。従って店頭の見本とは木目などが違うこともございますが、こういった木目の違いは同じデザインでも一点ずつお作り致しておりますことの証でございます。

■神戸で育って130年。永田良介商店の歩み

・1868年神戸開港

外国に開かれることになった神戸の港は、関西圏ではじめて西洋が入る玄関になりました。それにともなって現在の神戸大丸百貨店周辺からフラワーロードにか けた一帯が外国人居留区に指定され、外国商館や洋館が建ちならぶようになりました。居留地の西隣には中国人街(南京町)ができています。時代は明治になり 岐阜(美濃)の禅寺で育った永田良介は20歳になって神戸の寺預かりの身分で神戸にきました。まもなく縁があって居留地にある英国商館に職を得ています。

・1872年創業。

明治5年、英国商館で働いて仕事のヒントを得た初代の永田良介は、居住区の外国人を相手に道具屋業をはじめました。現在の店より少し西側に居を構えて外国人居留地の向かいで欧米の公人や商人が、西欧から持ってきた家具の修理や、帰国の際に道具を引き取ったりする商いです。

椅子やテーブルは、日本の畳式生活には無かった家具ですが、国を挙げた文明開化のうねりの中、役所や会社は西洋式を取り入れるようになっていまし た。日本 人の間にも机・椅子の作業が増えていきました。椅子式にあった家具の必要性はどんどん高まり、また、神戸港に着く外国船の調度品の修理なども頼まれるよう になりました。洋家具のリフォームとリセールを扱う中で、永田商店は、洋家具の製作手法を培いました。

・明治10年 居留地に面する現在地、三宮町へ。

開業から5年目、北側の区画から現在地へ移転。当時の資料をみると元町界隈には、外人居留区向けに多くの洋家具商やで製造工場があったようです。工場と いっても、どこも手作りです。職人達は見よう見まねでまなび技術をつけていったようです。明治の中期には、永田良介商店も古道具商から洋家具商として業務 が確立し洋家具製作が本格的になりました。

明治後期、2代目永田良介が襲名した頃にはイギリスへ家具を輸出するまでになっています。2代目良介は才覚あふれ、木造船の需要が起きたとき、近隣の家具商と共に素早く造船業を起こして成功しました。この資金を持って本業の西洋家具業を大きくし信用力をつけました。

・永田良介商店と「船大工」について

神戸洋家具づくり職人の出自については和船の船大工からの転身が有名で『真木徳助』の職人集団が知られています。永田の場合は洋館から出る中古洋家具の仲 介からはじめています。職人を初代良介の妻の親戚筋である播磨(沿岸)地方から集めたりしていましたので、神戸家具全体の話の中に織り込まれたのかもしれ ないという事です。

・阪神間「洋風生活」にハイカラ家具をご提供

昭和初期、阪神間の素封家の住宅も洋風になってゆきました。
永田では上流階級居宅の家具や内装を多く手がけるようになりました。

3代目の永田善従は昭和5年、当時デザインで先進的だったバウハウスに学ぶためヨーロッパに遊学しました。ドイツだけでなく、イギリスやスウェーデンを訪れた3代目は帰国してのちヨーロッパの気風を職人達の製造現場にも取り入れました。
3代目がヨーロッパから学んで帰った「墨ぼかし」の塗り技法は長い間当店だけの秘伝でした。デザインも今日に受け継がれる永田ティストの基礎となっていま す。 善従はその優れたデザイン力で大阪圏へ進出、大阪堺筋支店を開店させ、日本の商業の中心地であった大阪で認められ著名な洋館建築の内装や雲仙観光ホテルな どの大手の仕事を手がけました。

・戦後再建

残念ながら第二次世界大戦の神戸空襲で店舗は焼失し3代目は戦死しました。
復員してきた設計士たちが焼け跡から再出発して、若い良一郎を支えて戦前からの顧客の家具修理の依頼などをこなしながら厳しい時代をしのぎました。苦労が実って昭和23年、4代目永田良一郎が店舗を再建しました。

・15958年 シアトル博覧会に日本製の西洋家具を出展

日本の輸出振興の一環で昭和33年、神戸の手作り洋家具(現在の神戸家具)屋が神戸木材科学協同組合を結成してアメリカのシアトル博覧会に出品。少ない予 算で出かけた博覧会ですが、好評を博して終了時には家具が完売。4代目良一郎は思わぬお金ができて帰路の運賃確保。ついでにアメリカの家具事情を視察して まわることに。モノに恵まれて豊かな国を目の当たりにする武者修業の旅でもありました。

昭和41年~平成9年、東京日本橋白木屋(元・東急百貨店)に出店しました。
東急百貨店渋谷本店では昭和43ー55年出店しています。
*現在も関東へ定期的に出張し調整・修理にあたっています。

昭和63年 5代目永田耕一社長就任.現在にいたっております。
今では神戸洋家具は『神戸家具』と呼ばれて知られるようになり、
当店も神戸の老舗としてテレビや雑誌で紹介されるようになりました。

■適材適所

無垢材に拘らず長期に亙り信頼できる素材を利用

■アフターサービス

家具を通して、末永いお付き合いを

■ぼかし

流行に左右されない伝統の色合いのひみつ

■コイルスプリング

座り心地を極めた身体に優しいクッション

■地獄組み

世紀を超え、人・モノを支え続ける技術

 

永田良介商店 HP

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■民芸の歴史と北民

・民芸とはなにか

「民芸」とは大正時代に作られた造語です。表層の美に惑わされて工芸の実用性が衰えかけた頃「日本にはこんな素晴らしい職人技があるではないか」と識者たちが暮らしの美学の再発見に動きました。民芸とはつまり民衆の中から湧きだす工芸です。民芸復活にたずさわった柳宗悦や河井寛次郎らは、そこに宿る力強さを「用の美」と呼びました。使い慣れるほどに奥深さと使いこなす喜びがあり量産品では味わえない楽しい実用性に愛着がわく。そんな実用性をきちんと備えた民芸の魅力が「エコ」と「もったいない」の今、再び脚光を浴びています。

■北海道民芸ストーリー

1964年創業の北海道民芸家具は、日本屈指の名門家具ブランドです。初代の大原総一郎氏の父・孫三郎はクラレの創業者。美術収集家として活躍し、日本で最初となる近代西洋美術を展示する大原美術館を設立。その後、柳宗悦や濱田庄司と交流を深めながら父子で民芸運動の支援者となり、日本民藝館の設立に協力します。

やがて総一郎は父の遺志を受け継ぐべく、北の大地で殖産振興と伝統技術を根付かせようと民芸家具の製作を決意。十代の若者たちを集め、まず木工の修業を長野県の松本民芸家具で、みっちり積むところから基礎固めを始めました。

まもなく道内の潤沢な樺の樹を主材に、多くの民芸家具を作りだすようになります。思えば明治末に武者小路実篤や志賀直哉の白樺派という文芸思潮が生まれ、それが大正デモクラシーという文化現象となり、さらに民芸復活の道を開いたのですが、二つの樺の樹は暮らしを潤す幸運の樹なのかもしれません。

高度成長期に入ると収益を急ぐ画一的で効率優先の量産品がもてはやされ、伝統の職人技が軽んじられがちになりました。そんな時代にも樹齢150年の樺の無垢板を活かした丹精な家具づくりは、柳宗悦らの遺志をついで用の美と質の高さで各地にファンを増やします。

1971年には人間国宝・芹沢銈介氏による北海道民芸家具のロゴも完成。1974年には道央の三笠に新工場を建設。2万4千坪の敷地でさらに発展をとげて企業名も、クラレインテリアと改めます。

そして時は流れて2009年秋。実直な企業理念と用の美に共感する飛騨産業が、民芸運動の熱い魂と美学を21世紀に引き継ごうと、製造技術の向上から経営まですべて担う事となりました。

■新しい民芸

中部山岳地帯の飛騨高山で当社が創業した大正時代、近隣の山々にはブナの天然森が広がっていました。この森林資源をどうすれば町が潤うか。そんな問いが、ヨーロッパ発祥の曲げ木椅子づくりの背中を押しました。折しも創業90周年を迎えた秋、遠く北の大地に周遅れで誕生した伝統ブランドの北海道民芸家具を継承することになりました。この英断は当社とも重なる実直な企業理念に共感したからに他なりません。用の美と呼ぶ生活美学のあくなき探求は、飛騨高山の物づくりと炭鉱と開拓の町・三笠を結ぶに十分な未来像をはらんでいたからです。

「用の美」を現代語訳すれば、どんな場面がふさわしいのでしょう。それは手作りの良さを残しつつ、工業化を図り、いつまでも変わらぬ使い良さと使う楽しみを地域から時代に提供すること。

飛騨産業は民芸の心を大切にしながら、これからも生活美学を追求していきます。

■木に新たな生命を吹き込む

「北海道民芸家具」はとことん素材にこだわります。主材である樺の木は年輪が細かく肌目は繊細緻密。非常に堅く機械強度が大きく接着性も抜群です。それだけに成長は遅く、良い家具材になるまでは途方もなく長い年月を待たなければなりません。限りある資源、親子代々大切に使ってもらえる家具を作ることは、環境保護にも繋がるのです。

1964年から私たちの間で受け継がれてきた、「家具を作ることで木に新たな生命を誕生させる」という大切な信念。樺の木に樹齢以上の家具としての寿命を与えることは、私たちの大きな使命です。

製材工場から運び込まれた樺材は、工場の広大な空きスペースに高く積み重ねられ、約半年から2年間「天然乾燥」されます。ここで木の水分は20%前後に絞られ、続く「人工乾燥」でゆっくりと約8%前後まで減少します。そしてこの工程による反りや歪みを除去するために、さらに約1か月間の「養生」が行われます。製品化後の木の歪みを確実に防ぐために、乾燥工程にここまでの時間と手間をかけるのも、私たちの素材へのこだわりのあらわれです。

■匠技と機械が織りなす美と格闘

乾燥工程を終えた木材は、多くの工程を経て美しい家具へと変わります。良質な部分のみを所定の寸法の板や角材に裁断する「木取り」、家具のどの部分になるかを決め切断する「部分加工」はコンピュータ制御の機械で、そして熟練した職人が巧みなカンナかけやノミ扱いで仕上げる「組み立て加工」へ。組み上げられた家具は手作業で繰り返し研磨されます。

最終工程は家具の出来栄えや品格を決める「塗装」です。一般的に行われている組み立て前の部材ごとの塗装では、組み立て後に色調が異なる恐れがあります。そこで「北海道民芸家具」では、白木地での組み立て完成後、植物系ラッカーでの塗装~拭き取り~研磨を手作業で10回ほど繰り返します。クリアラッカーでの最終仕上げも含め、植物系高級塗料での塗装を何度も繰り返すのも、きめ細やかな温もりある木肌を最も美しく見せ、さらには補修や再塗装しやすい生活具を目指す私たちならではのこだわりです。

■環境への温かな視点が、人の優しさへ

北の大地で樹齢を重ね、ようやく伐採期に達する樺の木。その一本一本が、こうして多くの熟練工の手で慈しむように家具へと作り上げられ、長く愛される生活具となっていきます。限りある資源を大切に、有効に活用すること。自然への畏敬と環境保護への想いは、創業の頃から今日に至るまで、私たちの間で脈々と培われてきました。ホルムアルデヒド等、有害化学物質を含まない接着剤や塗料を使い、合板には建築基準法の最上級材F☆☆☆☆を選択。地球にやさしいもの作りは、人の健康にもやさしいもの作りでもあります。安心して使っていただける「北海道民芸家具」、家具を通じて親から子へと受け継がれる家族の物語は、これからも新しい時を刻み続けることでしょう。

北海道民芸HP/飛騨産業内

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■飛騨の匠の心と技術

確かな技術と先進性、なによりも木を愛する「心」が飛騨産業の歴史を刻んできました。

1920年(大正9年)のある日、飛騨高山の町に2人の旅人がやって来て、西洋の曲げ木家具の技術をつたえました。その話に心を動かされた高山町の有志たちは、「飛騨の匠」で知られる伝統技術と、山々に密生したブナ原生林を資源に、株を出資しあって西洋家具メーカーを創業しようと決意したのです。当時としては画期的なベンチャー・ビジネスの誕生でした。椅子など見たこともなかった職人たちは、永年の経験と木の知識に支えられながら試行錯誤をくりかえし、工夫を加えて、2年後には、やはり地場の伝統技である春慶塗の施された椅子を、自信をもって世に送りだすことができるようになりました。
以来、飛騨産業の家具は昭和初頭の華・モダニズムを彩り、日本の家具文化を育むとともに、アメリカへの輸出を生産の中心に据えることで、欧米文化につちかわれてきました。
戦後は優れたデザインと品質で評判を集め、数々のロングセラーを生みだして、日本人の暮らしに定着していきました。そして、未利用資源の導入や廃材の利用など、飛騨産業の新しい試みと創造力は、今も創業の精神を引き継ぎながら、さらに日本の風土と文化に根ざした家具を産みだそうとしています。

工場には深みのある時間が流れています。ひとりひとりの誇りが、モノづくりを支えています。

飛騨産業には90年を超える歴史の深みがあります。そして蓄積された技術があります。そこに裏打ちされた信頼をさらに高めてゆくことはもちろんですが、それ以上に家具は、お使いになる方の思い入れがこもる物です。使えば使うほど想い出や愛着がこめられていく、たったひとつの家具を少しでも長く使っていただきたい。ひとつひとつの家具と、ひとりひとりのお客様を大事にしたい。そうして10年20年、100年経ったときの「蓄積シェア」を高めてゆきたい。それが私の夢であり、会社の夢です。
家具の材料である木は生命あるもの。木を愛する私たちは生命と、それを育む環境を大事にします。たとえば、これまで廃材とされてきた、木の節を積極的に生かした家具、スギ材の家具などもそういった問題意識から開発いたしました。接着剤や塗料もすべて、環境に負荷を与えないものを使っています。
また、文化はモノづくりから始まります。「飛騨の匠」の歴史を脈々と受け継いできたこの土地で、私たちがきちんとしたモノづくりに取り組むことは、飛騨の木工文化を活性化させ、さらに日本の木工文化を支えることになります。私たちは、日本のモノづくりの心を世界へ発信できるような企業をめざして、社員全員で一歩ずつ前へ進もうとしています。

飛騨産業株式会社 代表取締役社長 岡田贊三

飛騨の歴史を語るとき、その血を受け継いでいる私たちの祖先である「飛騨の匠」を抜きには始まりません。

かにかくに 物は思わず 飛騨びとの うつ墨縄の ただひとみちに

これは「飛騨の匠」の真摯な仕事ぶりと、その並はずれた技を讃えて歌人が詠んだ万葉の一句ですが、
日本書紀・今昔物語など遠い昔から歴史の舞台にしばしば「飛騨の匠」が登場しています。

■飛騨の匠とは

「飛騨の匠」は一人の優れた大工の名前ではありません。古来より顕在していた飛騨の建築技術を都づくりに活用するため、時の中央政府が税を免じてまで貢進を義務づけ、その律令制度によって木工職人として派遣しましたが、それらの人々を総称して「飛騨の匠」と呼ばれています。「飛騨の匠」たちは一年交代でもあり、ほとんどが歴史上名を残していないが、中には石山寺造営の関係文書にみられる勾猪麻呂(まがりのいのまろ)のような名工の例もありました。「飛騨の匠」というのは優れた木工の美称でもあり、万葉集や源氏物語には追憶の匠として度々登場しています。

■飛騨の匠の起源

「飛騨の匠」の記述が現存する史料に初めて現れるのは、今からおよそ1300年前のことです。養老2年(718)に制定された養老令(賦役令)に斐陀国条が定められ、斐陀からは1里(50戸)につき10人が1年交代で都へ出役することが義務づけられましたが、その前の大宝律令(701)でも同様であったと考えられています。飛騨国は優れた木工集団「飛騨の匠」を派遣する見返りとして、租・庸・調のうち、庸・調という税が免ぜられたのです。これが律令政治による、飛騨から都へ人材を派遣するという「飛騨の匠」制度の始まりです。
当時の飛騨は10里程度と推察され、徴用された人数は100人を基準とし、工事の状況で増減され多い時には200人あまりが都に上りました。以後平安末期までの500年間に亘って、延べ人数は4万とも5万とも言われています。仕事は年に330日以上350日以下と定められ、この日数に達しなければ飛騨に帰る事が許されませんでした。厳しい労役に耐え、真摯で並はずれた腕を誇った彼らの技は絶賛され、いつしか「飛騨の匠」と賞賛されるようになり、薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営に活躍して日本建築史の黄金時代の一翼を担ったのでした。現在も奈良の橿原市に飛騨町がありますが、高山の町並みを思わせる小ぎれいな木造家屋が軒を連ね、また大和路には飛騨と共通する地名が多い事から、飛騨から上京した人たちが現地にとどまり土着化したものとも考えられます。

■飛騨産業の誕生

1920年(大正9年)のある日、高山に二人の旅人がやってきて来ました。大阪で西洋の曲げ木技術を学んだ彼らの話に心を動かされた町の有志たちは株を出資しあって西洋家具メーカーを創業しようと決意したのです。決意の裏にはこの地に流れる「飛騨の匠」の技術とブナ材に代表される豊富な森林資源があったからでした。また新しい事に挑戦しようという飛騨人の気概があった事は間違いありません。

椅子など見た事もなかった職人たちは、木に対する経験と知識に支えられながら試行錯誤を繰り返し、ようやく2年後、やはり飛騨の伝統技である春慶塗の施された椅子を世に送り出したのです。まだ鉄道もなく、こもで包み荷馬車に乗せ出荷していました。当時は曲げ木を初めて家具に応用したトーネットのスタイルを模倣したものから始まり、やがてオリジナルの折りたたみ椅子やサロンチェアを造り出します。

■世界に向けて飛騨の匠の技術と日本の美を発信

当社では2001年より品質・生産性の向上を計るべく業務改革に取り組み、生産におきましては2003年6月より受注生産体制を整えるなど、より早くお客様のご意見を反映すべく改善を進めてきました。商品におきましても、今まで使われなかった節をデザインに取り込んだ「森のことば」や家具用材としては不向きとされてきた杉を主材とする家具の開発に取り組み、環境に配慮された借り物ではない日本の美しさを表現したモノ造りを行ってきました。杉を主材とするシリーズは、日本の美を世界に向けて発信した、イタリアデザイン界の巨匠「エンツォ・マーリ」氏デザインの「HIDA」をはじめ、2014年には杉圧縮柾目材による「KISARAGI」がグッドデザイン金賞を受賞するなど、日々進化を続けています。気もちのいいくらしを提案する飛騨産業に今後もご注目ください。

飛騨産業HP

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■秋田木工

曲木家具の魅力。世紀を越えて愛される「曲木家具」

100年以上の歴史を持ち、曲木家具を作り続ける日本唯一の専門工房「秋田木工」

積み重ねた伝統を守り、熟練した職人達の手によって生み出された曲木家具は、今もその輝きが衰えることはありません。

片手で持てるほど軽量にもかかわらず、堅牢で丈夫、そして比類なき美しいフォルム。

曲木家具は、生活に密着した機能性や実用性、そしてその美しさで、不朽のスタイルとしてその存在感を示し続けています。

匠の技

木取り、曲木、切削、研磨など、ひとつひとつの工程を熟練した職人の手で行うことで、秋田木工の曲木家具は生まれます。

職人達がみせる「匠の技」を、ぜひご覧ください。

■曲木家具の歴史

曲木の技術を発明したのは、ドイツ人のミヒャエル・トーネット(1796年〜1871年)。
トーネットが発明した曲木工法は、木が持つ可塑性(圧力を受けて変型したものが、そのまま元に戻らない性質)を利用。天然の無垢材を煮沸し、鉄の金型に沿って曲げ成型します。この技術により、これまでの椅子とは一線を画す美しい曲線を描く椅子が生まれたのです。

トーネットは「モダンスタイルの原点」ともいえる曲木椅子を数多く生み出し、特に1859年に発表されたNO.14は歴史に残る名作となり現在までに約2億脚製造されたといわれています。

曲木の技術をもって造られた家具は、シンプルなデザインと身体に馴染む曲線のフォルム、片手で持てる軽さと丈夫さを備え、世紀を越えて世界中の多くの人々に愛され続けています。

■秋田木工。日本唯一の曲木家具専門ブランド

日本に初めてトーネットの曲木技術が伝わったのは、1901年のことです。
そして1910年に、曲木に適したブナやナラの豊富な、秋田県湯沢市に、秋田曲木製作所(現在の秋田木工株式会社)が設立されました。

それ以来秋田木工は、「木が木で立っていたときよりも立派に美しく」という信念のもと、熟練した職人の丹念な手作業で、曲木家具を生み出しています。
中でもチェア「No.16」は、創業当時から作られ、今なお多くの方にご愛用されています。

また、日本を代表するデザイナーとのコラボレーションも行い、数々の曲木家具がグッドデザイン賞に選定されました。
剣持勇、柳宗理など、名だたるデザイナーに選ばれたのは、曲木家具にかける揺るぎない信念と、技術の高さの証明です。

秋田木工は、この技術を約100年間守り続けて、今もひたむきに曲木家具を造り続けています。木を知り尽くした職人達が一脚一脚丁寧に造り上げる曲木家具は、機能性や実用性、そしてその美しさで、不朽のスタイルとしてその存在感を示し続けています。

■曲木家具の技術

「曲げ木」

曲木とは、その名の通り、無垢の木材を高温の蒸気で蒸して曲げる技術。
曲木の描く緩やかな曲線は、デザイン性と機能性の双方を追い求めた、1つの答えです。
「暮らしの中で、快適に使える家具であるように。」
そんな想いを実現するために、デザインやパーツで微妙に曲げの角度を変え、木の太さや滑らかさ、色などにこだわり、すべて熟練した職人の手で一つひとつ作られます。

「乾燥・木取り」

希少性が高まる国産のブナ材を、時間をかけて自然乾燥させます。そして木材を必要な長さ、厚さ、太さに切り出します。

「曲木加工」

高温で蒸した木材を金型に沿わせて曲げていきます。
木材が冷め、乾燥して固くなる前に成型しなければならないので、作業は時間との勝負。2分から5分ほどで、一気に仕上げなければなりません。デザインによっては、曲げるだけではなくひねりも加える複雑な加工が必要になる場合もあり、木目によって微妙な力加減をしたり、曲げるスピードを調節したりと、培われた経験と技術が必要とされる作業です。

「切削」

曲げ木加工を施した後、木材を丸く整え、太さや曲げ木の角度を調節するとともに、曲げ木加工の際に生じたわずかなへこみや細やかなキズを修正します。南京カンナ と呼ばれる道具を何種類も使い分けながら、ひとつ一つのパーツを丁寧に削りだします。驚くべき速さで削り、触れて確認しながら繊細な曲線を紡ぎだす技は秀逸です。

「研磨」

カンナで整えた後は、ヤスリで表面を滑らかに仕上げていきます。職人が手のひらで感触を確かめながら、繊細に丁寧に研磨していきます。手にしっくりと馴染み、体に優しくフィットする柔らかな感触や曲線は、一切妥協を許さない職人の技と精神から生まれています。

「塗装」

組み立てられた椅子は、塗装の工程へと移ります。着色の間に2度手で磨くことで、色が安定し、きれいに塗り上がります。その後、製品によっては座面や背の張り加工を経て、完成に至ります。これらすべての工程は、熟練した職人の技により行われるもので、だからこそ高い完成度を誇ります。